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先立って行かれる神

稲田 勤

 

皆様、新年あけましておめでとうございます。新しい年を迎え、まず神様の前に集い、敬愛する皆様と共に礼拝を捧げることができることは大きな喜びであります。皆様は、この新年をどのような思いで迎えられたでしょうか。大晦日と元旦。暦の上ではいつもと変わらない連続した昨日と今日であります。しかしながら、そこには不思議な舞台転換と気持ちの変化が見られます。

いつだったかは忘れましたが、朝日新聞に「私の好きな句」と題した俵万智さんのコラムが掲載されていました。彼女はその中で、高浜虚子のこんな句を紹介しています。「去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの」。そして、俵さんはこんな言葉を添えていました。「新年になると、新しい扉が開かれたとか、時代の幕開けとか言われたりする。つまり多くの人は「去年」と「今年」という語の間には、それを貫くものよりも、むしろ段差や区切りを感じている。けれど去年と今年とは、実は棒のような何かによって、力強くくし刺しにされているのだ。高浜虚子は年の変わり目に、段差ではなく連続を見いだした。」

この一文に、大切な視点を教えられたように思います。確かに、新しい年を迎えることは気持ちをリセットして区切りとする良い機会です。しかし、聖書に目を向ける時、日が変わろうと、月が変わろうと、年が変わろうと、決して変わることなく私たちの人生を貫いている神様の約束があるのです。御一緒に聖書の言葉に見て見ましょう。

  申命記11:11−12   P299  P262

「あなたがたが渡っていって取る地」とあります。私達の前には進んでいって取るべき新たしい一年が横たわっています。それは、白紙のあらゆる可能性を秘めた一年であります。ここは、エジプトを出てから40年近くイスラエル民族を率いてきたモーセが、約束の地を前に次世代に全てを託して心にとめるべきことを語っている場面です。この後は、ヨシュアという人物がリーダーとなります。ヨシュアは、民を率いて次々と約束の地を獲得していきます。しかし、ヨシュアはある程度のところで満足してしまうのです。その時に神様はヨシュアに言われました。「あなたが渡って行って取るべき地はまだまだ多く残っている」(ヨシュア記131)と。

神様は、いつも私達の想像をはるかに超えた豊かな祝福を用意して下さっています。神様は出し惜しみをするようなお方ではありません。祝福に満ちたお方であり、その祝福を惜しみなく与えて下さるお方です。私達自身がその神様に制限を設けてはいけません。

ヘブル111は、信仰について教えています。それによれば、信仰とは、自分が「望んでいる事がらを確信」することです。「まだ見ていない事実を確認」することであります。まだ手にしたわけではないのです。まだ見たわけでもないのです。しかし、そうなると信じること、実現するのだと信じること、それが信仰だと言うのです。

この一年を、信仰をもって大きな期待を抱いて歩みたいと思います。仕事をしておられる方は、その仕事において成功し、経済的にも祝福されるように神様に期待致しましょう。これから、進学、就職、結婚と大切な出来事を迎える方も、主が素晴らしい道を用意して下さっていることを信じ期待して頂きたいと思います。教会の働きも、主が豊かな実りを与えて下さることを信じて大いに期待したいと思います。神様が用意しておられる祝福を手にするには、渡っていかなければいけません。立ち止まっていては何も得られないのです。信仰と期待を持って、祈りつつ新しい年に向かっていきましょう。そして、神様は用意しておられる祝福を手にしたいと思います。

さて、「あなたがたが渡って行って取る地」は、「山と谷の多い地で、天から降る雨で潤されている」とありました。

私達がこれから迎える一年がどのような年になるのかは誰にも分かりません。どのような出会いがあるのか、またどのような出来事が待っているかは分からないのです。ただ確かなことは、聖書が語る通り、「山も谷も多くある」ということです。「人生山あり谷あり」とはよく言われることです。聖書の中の「谷」という言葉は、もともとは「平地」を意味する言葉だと言われています。平地は歩きやすいですが、山は違います。かなりの困難が伴います。ですから、谷は順境の時、山は逆境の時と喩えることができるでしょう。人生は順境ばかりでなく、必ず逆境の時があるのです。これから迎える一年もそうです。いいことばかりでなく、思わぬ悩みや困難に遭遇することもあることでしょう。

しかし、その「山と谷も多くある地」は、「天から降る雨で潤っている」とあります。山は天から降り注がれた雨を谷底の一つ所に集めます。その水は川となって流れ、命ある者の潤いの源になるのです。私達の人生においても同じことが言えるかもしれません。逆境の山があるからこそ、順境の時の潤いと実りが生まれるのです。

浅野順一という牧師は、「ヨブ記」という本の中でこんなことを書いています。「人間の一人一人の生活や心には、大なり小なり穴のようなものが開いており、その穴から隙間風が吹き込んでくる。その穴を埋め、隙間風が入らないようにすることは大事である。しかし、同時にその穴から何が見えるかということがもっと重要なことではないか。穴のあいていない時に見えないものが、その穴を通して見える。どんな苦しいこと、嫌いなことがあってもそれを通して健康な時、幸福な時、平安な時には解らなかったことが解り、知らなかったことを知るようになる。そこに新しい感謝と喜びを感ずるのではないか」と。

ヨブは、神様の前に正しい人でしたが、大きな試練を経験しました。しかし、ヨブはその大きな苦難を経てこう言ったのです。「私はあなたのことを耳で聞いていましたが、今は私の目であなたを拝見致します」(ヨブ425)と。今まではただ聞いているにすぎなかった、しかし、試練を経た今、私は確かにあなたをこの目で見ていますと言っているのです。神様は、確かに時に困難を経験することをお許しになり、私達の人生にポッカリと穴をお空けになることがあるのです。それは私達にとって貴重な体験なのです。そこからしか見えないものがあるからです。何より、それは私達が神様を見るためであります。だから、逆境に導かれることを恐れてはなりません。それもまた大きな恵みなのです。

さて、最後の言葉に目を向けてみましょう。私達がこれから渡って行って取る山あり谷ありの地について、12節にはこのような約束が書かれています。「その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主の目が常にその上にある」。

有り難い約束です。これから迎える私達の一年の歩みを、主は常に心にかけ、目を注いで下さっていると言うのです。常にですから、順境の時も逆境の時もであります。

旧約聖書にこのような物語が記されています。イスラエルの国がアラムという国と戦争をした時のことです。イスラエル軍とアラム軍は山上の町サマリヤで戦火を交えました。勝利したのはイスラエル軍でした。敗れたアラム軍の兵士達は言いました。「彼らの神は山の神だから、彼らは我々に対して優勢だったのです。もし平地で戦えば、我々の方が優勢になるはずです」。翌年、アラム軍は体制を整えて再びイスラエル軍に戦いを挑みました。今度はアペクと言う平地の町で対陣することになったのです。その時、イスラエル軍の長であるアハブに、預言者はこう告げたのです。「主はこう言われる。アラム人は主が山の神であって谷の神ではないと言っているので、私はこの大軍をことごとくあなたの手に渡す。こうしてあなたたちは、わたしこそ主であることを知る」と。結果は再びイスラエル軍の勝利だったのです。

この物語は、聖書の神様が、真実に山の神であり谷の神であることを教えています。順境の時も逆境の時も変わらずに、神様は私達のことを顧みて下さるのです。共にいて助けて下さるのです。これこそが私達の人生を貫いている約束です。この神様の約束を信じて生きる人は幸いです。

   申命記31:8  P330   口P292

  モーセがヨシュアに語った励ましの言葉です。イエス様は共にいて下さる。見放すことも、見捨てることもない。これだけも十分に励まされる約束です。しかし、それに加えて、「主はみずからあなたに先立って行き」とあります。私達はこれから通ったことのない新しい道を行こうとしているのです。それは未知の世界です。しかし、イエス様は私達に先立って、この道を行かれ、既にその道を知り尽くしておられるのです。

S・D・ゴードンという人はこう言っています。「私達の召されていく場所がどこであろうと私達の主は、私達より先にそこに行かれた。主のみ足は、私達に来るあらゆる経験を通して、道を踏み固め、平らにしてくださったのである。彼は一つ一つの道を、ことごとく知り尽くしておられる。すなわち、岩のごつごつしている峡谷や、すべりやすい谷を縫って通じている険しい誘惑の小道、勝利の絶頂にある目が眩むような道、古い踏み固められた平凡な日常生活の道を知り尽くしておられる」。

私達には分からなくても、イエス様はこれから進もうとする新たな一年の歩みを既に先立って行かれ、知り尽くして下さっているのです。そのイエス様が私達の一年の歩みに伴って下さるのです。何と心強いことでしょうか。

福音書を見ると、イエス様が、十二弟子を呼び寄せ、二人ずつ伝道旅行に遣わす場面が書かれています。その時、イエス様は彼らにいいました。「パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、下着も二枚着ないように。杖一本のほかには何ももたないように」(マルコ68)。イエス様そう言われたのです。行ったことのない場所に行くのです。不安があるでしょう。着替えだって、お金だって安心のために持っていきたいのです。しかし、イエス様は、「杖一本」だけで行けと言うのです。

この杖は、信仰の杖です。イエス様ご自身と言っても良いでしょう。新しい一年に旅立つにあたり、私達もすっきりと杖一本で出発したいと思います。年の初めから終わりまで、主イエス様は私達を顧みて下さっています。そして、先立って歩んで下さっているのです。その一歩前を行くイエス様についていきたいと思います。




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