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走りぬこう
稲田 勤
先月の26日に第三子の男の子が無事に生まれた。我が家の三人の子供達は全員同じ助産院で生まれたことになる。幸いにも三人とも私は出産に立ち会うことができた。最初の子が生まれた時は、とまどってしまい、「ご主人、ほら手を握ってあげて」、「背中をさすってあげて」と助産士さんに叱咤激励されながらの立会いだった。今回の第三子の時は、落ち着いて見えたのか、「三回目ともなるとさすがに余裕がありますね〜」とお褒めの言葉を頂いた。
最初の子が生まれた時、今までにない大きな喜びを経験した。二番目の子が生まれた時も、三番目の子が生まれた時も同じだった。三人の子供達の出産は、神様の私たちに対する愛がいかに大きく深いかを教えてくれた。また、神様の愛が全ての人に対して平等で同じであることを教えてくれた。
今日、三名の方がバプテスマを受ける。神様の子供として新しく生まれる霊的な誕生を経験するのである。主イエス様を救い主として、また、人生の主として信じ、受け入れることほど尊いことはない。また、神様にとってもこれほど嬉しいことはないのだ。天においていかに大きな喜びが起こっていることだろう。私たちも心から新しい神様の子供の誕生を喜びたいと思う。
使徒ヨハネは、「私たちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい。私達は既に神の子なのである。」(ヨハネ第一3:1)と言っている。神様の私たちに対する愛は、一人子であるイエス・キリストをお与えになるほどの愛である。自分の子供の命を、他人の救いのために差し出すことができるだろうか。簡単にできることではない。でも、神様は私たちのためにそれをなさったのだ。イエス様の十字架は、神様の愛が真実であることを示している。今朝、三人の方々とご一緒に、この神様の愛を喜び、受け止め、讃美したいと思う。
さて、この喜ばしい時に、神様は何を語られるのだろうか。
ヨシュア1:5−9 P301
モーセの死後、新しくリーダーに選ばれたのはヨシュアだった。ヨシュアは不安だったに違いない。そこで、神様はヨシュアに約束と励ましの言葉を語るのである。それが今お読みした内容である。
何事もそうだと思う。新しい世界に足を踏み入れる時や、新しい事に挑戦する時は、期待や喜びもあるが、同時に不安や恐れもあるのではないだろうか。バプテスマを受け、信仰の道に入ることも同じであると思う。ヨシュアへの約束と励ましは、信仰の道のスタートラインに立った三人への約束と励ましでもあり、信仰の道を歩み続けている私たちへの約束と励ましであると言えると思う。このヨシュアに対する神様の言葉の中から、三つのメッセージに耳を傾けたいと思う。
8節「律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、守りなさい。」
「そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう」とある。信仰の道において祝福と勝利に預かり続ける秘訣がここにある。それは、律法の書、つまり聖書の言葉を口から離すことなく、これを思い、ことごとく守ることである。
生まれたばかりの子供は言葉を理解したり、話したりすることはできない。しかし、両親をはじめ周りにいる人達の言葉を繰り返し聞いて言葉を覚え、やがて、言葉を理解して話せるようになるのである。
わが息子はまだ十分に言葉を話すことはできない。牛乳が大好きで、毎朝飲むのだが、本人は牛乳とは言えない。「おうにゅう」としか言えない。「牛乳下さい」は、「おうにゅうくさい」である。しかし、そんな彼も毎週暗唱聖句に挑戦している。短く区切って反復させると、その時は何とか聖句を読むことができる。しかし、一人で言わせると、何か言っているのだが、何を言っているのかよく分からなくなってしまう。それでもいいと思っている。神様の言葉を聞き続けること、その言葉を自らの口で言葉として繰り返すことに意味があると思うからだ。言葉はその人に思想と価値観を与えていく。どのような言葉聞き、覚え、語るかによって、その人が造られて行くと言ってよい。私達は世の言葉を聞き、覚え、語るのではない。神様の言葉にこそ耳を傾け、覚え、守り、語るのである。聖書の言葉を手放さずに、いつも心と口に蓄えること。これこそ勝利と祝福の秘訣であることを覚えていたい。
7節「これを離れて、右にも左にも曲がってはならない」
ここでも律法について語られている。「モーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い」、「右にも左にも曲がってはならない」。信仰の道から離れたり、迷ったり、踏み外したりすることなく、真っ直ぐに歩み続けなさいとの勧めである。
台湾時代のことである。私が通う日本人学校のすぐ近くに線路があった。そこは、私達の格好の遊び場だった。客車だけでなく、貨物列車も通るのだが、そんなに頻繁に通過するわけではない。私達は、枕木やレールを使って色んな遊びを考えて楽しんでいた。(良い子の皆さんはまねをしないでほしい)ある時、レールの上をどれだけ落ちないで歩けるか競争したことがある。足の幅くらいしかないレールの上を、バランスをとりながら、平均台の上を歩くように進むのである。100メートル、200メートルとどんどん進んでいくと、やがて友達の声が聞こえなくなったので後ろを振り向いたのだ。すると、友達の姿見えず、自分は随分と左に曲がっていたのだった。足元を見て、集中して歩いている時は、自分はまっすぐに歩いていると思っていた。しかし、実際には、レールは少しづつではあるが左に曲がっていたのである。
ここに大切な教訓がある。左にも右にも曲がらずに歩むには、足元の道を見ていてはいけないのである。変わらないもの、動かないものに目をむけなければいけない。
ヘブル人への手紙12章1−2節 P356
「信仰の創始者であり完成者であるイエスを仰ぎ見つつ走ろう」とある。右にも左にも曲がらずに正しくまっすぐに進むには、主イエス様から目を離さないことである。このお方をしっかり見続けるならば、私達は道を間違うことなく信仰の道を最後まで走りぬくことができるのである。
バプテスマは、決して信仰のゴールではない。むしろスタートである。今日三人の方は「参加すべき競争」のスタートライン立ったのである。何事もそうだが、始めること以上に継続することが大事であるし、また難しいことである。三日坊主という言葉があるが、せっかくの決心や志も途中で失ってしまっては意味がない。信仰の道も同じである。何事があろうとも、最後まで耐え忍んで走りぬいてほしい。それが神様の願いである。長い道のりを走りぬくことは大変かもしれない。前に進む事を妨げるために、足には色々なものがからみついてくるだろう。しかし、あきらめないで、最後まで走りぬきたい。たちどまってもいい。時には座り込んでもいい。それでも、あきらめずに最後まで走りぬきたい。同じ道を走っている信仰の友がいる。そして何よりも、主イエス様という伴奏者がいるのだから。
ヨシュア1:9
「共にいる」という約束である。不安と恐れにおののくヨシュアに、神様は、「どこへ行っても私が共にいる」との約束を伝えたのである。5節には、「私はあなたを見放すことも、見捨てることもない」と約束されている。これは私たちに対する約束でもある。神様が私たちを見捨て、見放すことはないのだ。たとえ、私たちが神様を見捨てたとしても、神様が私たちを見捨てることはないのである。この約束をしっかりと握っていたいと思う。
このヨシュアに対する神様の言葉の中で、繰り返されている言葉がある。「強く雄々しくあれ」と言う言葉である。短い内容の中で三回この言葉が繰り返されている。なぜ繰り返したのか。それは、神様ご自身が、ヨシュアの前途が困難に満ちたものであることを知っていたからだと思う。「ヨシュアよ。おまえの前途には多くの困難がある。しかし、恐れるな。強く雄々しくあれ。私が共にいるのだから。」これが神様のメッセージだったのだ。
信仰の道にも困難や試練が伴う。事実、今日洗礼を受ける矢富兄弟は、試練の中でバプテスマを決心された。いや決心して、信仰の道に進もうとしたために試練に会ったといって良い。他の二人も中学生なので、将来どんな困難が待ち受けているか分からない。しかし、恐れることなく、強く雄々しくあってほしい。主が共におられるのだから。
だれかが共にいる。これは人に生きる力と勇気を与えるのだ。その共におられる方が、「勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」と言われる勝利の主であるなら、どれだけ大きな勇気と力が与えられることだろうか。
ヤコブの経験を思い出す。自分の傲慢と愚かさのゆえに、母と結託して、父を欺き、兄をだまして、家督の件を奪ったヤコブは、兄に命狙われて、一人叔父のところへ逃げていく。彼は後悔と恐れと不安の中で野宿するのだ。そしてその夜一つ夢を見るのだ。それは天と地を結ぶ梯子であった。そこを天の使いが上り下りしているのを見たのだ。目覚めた時、ヤコブは、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言うのである。
神様の存在とは人間が考え出すものではない。まして、知的に理解することでもない。信仰の目によって気づかされることである。目が開かれる時に、私の人生にも主が共にいて下さったのだと知るのである。
過ちを犯し、自分の弱さと後悔で打ちひしがれているその真ん中で、ヤコブは主が共にいることを示された。確かに神様は離れることなくいついかなる時にも共にいて下さるお方なのだ。
預言の霊はこう語っている。「どんな事情もどんな距離も、我々の天の助け主から離れさせることはできない。どこへいようとも、どこへ行こうとも、主はいつも我々の右にあって、力づけ、助け、支え、励まされる。」(各時代の希望 下 P154)
既に信仰の道を走り始めた者も、今日そのスタートラインに立つ三人の方も、この神様の約束を改めてしっかりと胸に刻みたい。勝利の主が共におられるのだから、たとえ困難や試練が伴っても最後まで耐え忍んで走りぬこう。主イエス様をお迎えするその時まで、右にも左にも曲がることなく、信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離すことなく共に走り続けてきたいと思う。
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