|


ここに力がある
稲田 勤
祈り:天の神様。礼拝の場に身を置くことができる幸いに感謝します。私達の捧げる礼拝を受け入れ、豊かな祝福をもって満たして下さい。あなたのみ言葉を求めます。主よ、お語りください。我らは聞きます。そして、あなたのみ言葉によって我らの魂を養い力を与えて下さい。主のお名前でお祈りいたします。
ピーター・ドラッガーという人がいる。日本でも注目されている経営学者である。60年前にマネジメントという言葉を世に知らしめた第一人者である。また、ドラッガーは、知る人ぞ知る明治維新の研究者でもある。日本の明治維新にこそマネジメントの本質があるという考えを持った方である。彼の書いた書物は日本でも多く出版されている。内容は経営に関するものだが、耳を傾ける価値のある言葉が多くある。例えば、彼は、「チャンスはいつも問題としてやってくる」と言っている。だから、「問題を問題としか感じないで、否定的になったり、恐れていてはいけない。その背後では新しい何かが起こっているのだから」と言うのだ。そして、「その時勝利する人は、能力のある人ではない。知恵のある人でも、技術のある人でもない。その問題の中で自分には何ができるかをしっかりと考え実践する人である」と言っている。
私達も問題や困難を経験する。その時に勝利を得る秘訣を聖書から学んでみたい。
イザヤ30:15−18 P983
イザヤ書は旧約聖書の預言書の中で最も大きな書物である。イザヤは、この書物中で、神様を「聖なる偉大なお方」として紹介している。その聖なるお方に、罪人である人間が近づくことができる。天地万物の創造者であるお方に、地の塵にすぎない人間が近づくことができる。世界の歴史を支配されるお方に、日々の小さな出来事にも怯えてしまう弱い人間が近づくことができる。いや近づくことができるだけではない。そのお方とつながることができる。親しい関係を持つことができる。これがイザヤ書に流れている慰めと励ましのメッセージである。
預言者イザヤが活躍した時代は、およそ紀元前750年頃であると思われる。当時イスラエルの国は既に北王国イスラエルと南王国ユダの二つに分裂していた。イザヤが活躍していたユダ王国は二度の国家的な危機に直面することになる。それは激動と不安に満ちた時代であった。第一回目の危機の出来事は、イザヤ書7章に記されている。スリヤとエフライム(北王国イスラエル)が同盟を結んでエルサレムを攻め囲んだのである。その時、「王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した」(イザヤ7:2)と書かれている。林の木々は風がなければ穏やかである。しかし、風が吹けば枝が揺れてざわざわと音をたてる。風が強くなれば、それだけ騒ぎも大きくなる。私達も同じでないだろうか。問題や悩みに囲まれると、心は騒ぎ落ち着いてはいられなくなるのだ。当時のアハズ王は、政治的な対策を試み、具体的にはアッシリヤと手を結ぶことを計画して、更に軍事力を整備することによってこれに対抗しようとした。しかし、イザヤは彼に告げるのである。「気をつけて、静かにし、恐れてはならない。心を弱くしてはならない。」「彼らは悪事を企むが、この事は決して行われない。また、起こることはない。」「もしあなたが信じないならば、立つことはできない」と。(イザヤ7:3−10)困難を前にして、アハズ王は策略と軍事力で解決の道を探りました。しかし、イザヤは大事なのは神様を信じること、そして信じるということは、静まるということだと語ったのである。
二回目の危機の出来事は30章に記されている。第一回目の危機から約30年後のことと思われる。その時のユダの王はヒゼキヤである。今度は一度目の危機の時に助けを求めて手を結ぼうとしたアッシリヤに攻め囲まれるのである。昨日の友は今日の敵である。人の力に頼るということは、結局そういうことなのだ。いつかは裏切られるのである。その時ヒゼキヤはどうしたか。イザヤ30:2には、「彼らは我が言葉を求めず、エジプトへ下っていって、パロの保護に頼り、エジプトの陰に隠れようとする」と書かれている。アッシリヤがだめなら今度はエジプトだと言うわけである。学習しないというか、懲りないというか、しかし、ここに人間の真相があるのである。その時再びイザヤが神様の言葉を王と民に伝えるのである。その言葉がイザヤ30:15に書かれている。「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかに信頼しているならば力を得る。」新共同訳聖書は、「静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と訳している。これがイザヤを通して与えられた神様のメッセージだったのだ。
30年前と今回と、王(人間)が危機に対してとった対策は全く同じであった。それは隣国や軍事力に頼るということだった。それに対して、神様のメッセージも変わらなかった。30年前も今回も、「神を信じて静まれ、落ち着け」だった。「主が立ち上がってあなたがたをあわれまれる」。だから「主を待ち望みなさい」。(イザヤ30:18)これが、変わらない神様の言葉だったのだ。
それにしても、私達は何故こうも落ち着きがないのだろうか。特に問題や困難に直面した時はじっとしていることができない。エジプトに助けを求めたヒゼキヤの行動を、イザヤは30:16で、「我々は馬に乗って飛んで行こう」。「我らは早い馬に乗ろう」と表現している。神様は静まれ、待てと言う。しかし、人間はせっかちに馬に乗って飛んで行こうとするのだ。
現代社会はスピードの時代である。その傾向は変わらない。速さと便利さを徹底的に追求している。人間はすぐに結果や成果を得ることを望み、ますます静まること、待つことが苦手になっている。
先日メロンを頂いた。ある方に、「メロンの臍の部分を押して柔らかくなったら食べごろだ」と教えて頂いた。そして、「まだ硬いので暫らく待った方が良い」と丁寧にアドバイスを頂いたのだ。しかし、我が家に持って帰ると、「食べたい。すぐに食べたい」の大合唱である。「落ち着きなさい。まだ早い。第一硬くておいしくないよ」と言ってもはやる気持ちは納まらない。毎日のように「まだかな」、「もういいんじゃない」と落ち着かない。結局一番良い食べごろまで待てずに食べることになった。とても美味しかったが、まだ底の方がこりこりしていた。待ちきれないのだ。
メロンぐらいなら良い。昨年の六月の事である。全国の牧師会が京都で開催された。私は朝一番で用事を一つ済ませてから新幹線で京都に向かった。覚えているだろうか。昨年は台風が多い年だった。その日も台風が本州に接近していた。あぶないなと思っていたが、心配していた事が起こってしまった。岐阜羽島の駅で強風と雨のために新幹線は止まってしまったのだ。「まあそのうち動くだろう」と最初は心のゆとりがあった。一時間過ぎたが動かない。サラリーマンの人達はそわそわしてもう落ち着かない。車掌を捕まえては「見通しは」と迫っている。「そのうち動くのだから慌てない」とまだ余裕を見せていたが、二時間が過ぎ、三時間が過ぎた頃には、私も「一体どうなっているのだ」といらいらそわそわして落ち着かなくなってしまった。三時間半を過ぎてやっとのろのろ動き出した。「良かった」と思ったのは束の間で、今度はトンネルの中で再度止まってしまったのだ。一時間が過ぎ、二時間が過ぎた。限界である。立ったり、座ったり、用もないのにトイレに行ったり。そんな中、緊張感が無い車掌のアナウンスが時折流れてくる。「ただいまトンネルの中で停車中です。出発はいつになるか分かりません。」「そんなことは言わないでも分かる」と思いながら寝ることもできずに気が気でない時を過ごした。結局六時間半新幹線は止まっていた。午前中に出たのに京都に着いたのは夜の九時過ぎだった。
これは、私にとって良い体験だった。人間がいかに待つことが苦手であるかを教えられた。特に問題の真ん中でじっと静かに待つことの難しさを教えられたのだ。人間はすぐに手っ取り早いところに助けを求めようとする。そして、すぐに結果が得られることを願うのだ。しかし、神様は、問題の中でこそ静まれ、落ち着けと言われるのである。
一度目の危機の時に、イザヤを通して語られた「静かにして」(7:4)という言葉は、原文は「体を水の中に沈めてしまう」という意味である。ある心理学者によると、胎児が母親の胎内の羊水の中にいることが人間の安らぎの原型だと言う。「静かにする」ということは、問題や困難の中で、どんな事を聞いても、どんな事を見ても、全てが頭上を通っていくかのように、神様の中に身を沈めることである。そして、どういうことが起こっても、この神様がおられるから大丈夫という信頼を持つことなのだ。
二度目の危機の時に語られた「穏やかにして」は、原文では「鳥が巣篭もる」という意味がある言葉である。雛をかえすために、親鳥はじっと巣の中で卵を抱いて温め続ける。出たり入ったりはしない。動かないでじっとしているのだ。「穏やかにしている」ということは、じっと神様を信頼して待つことを意味しているのである。30:18にあるように、「主を待ち望む者こそ幸い」なのである。
出エジプト記には、奴隷生活で苦しんでいたイスラエルの民が解放される物語が記されている。民の叫びを聞かれた神様は、モーセを遣わして、民をエジプトから脱出させるのだ。エジプトを出た直後、彼らは大きな困難に直面した。一度はエジプトを去ることを許した王の心が変わり、エジプト軍が追いかけてきたのである。その時彼らは紅海の前にいた。前方は海、後方はエジプト軍である。前にも行けず後ろにも引けなくなってしまったのだ。民は恐れて慌てふためくのである。そして、モーセに、「荒野で死なせるためにエジプトをわざわざ出てきたのか」と怒りと不満をぶつけるのである。しかし、その時モーセは落ち着いてこう言ったのである。
出エジプト記14:13−14 P94
「ただ、あなたがたのためになされる神様の救いを見なさい。あなたがたは黙していなさい」。「神様が戦われるから、あなた黙っていなさい」と言うのだ。新共同訳聖書は、「静かにしていなさい」と訳している。
信仰とは静まることである。黙ることである。動き回ることをやめることである。そして、主を待ち望むことだ。旧約聖書においては、「待ち望む」という言葉と「信じる」という言葉は同義語である。信じるということは、待つことなのだ。詩篇には、「我が魂はもだしてただ神を待つ」(62:1)という言葉がある。神様の助けや恵みを受け取るために必要な態度は、自分の力や知恵で何とかしようと動き回ることをやめて、ただ、神様が働かれるのを信じ信頼して待つことなのである。
実は、神様ご自身、そのことを待っているのだ。イザヤ30:18には、「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される」とある。神様も待っているのだ。私達が静まり、黙って神様にお任せするのを待っているのだ。何故か。それは、私達が動き回っている間は、神様は助けることができないからである。
私は子供時代を台湾で過ごした。学校で毎日のように泳ぐ練習をした。先生がある日おぼれそうになった時どうするかを教えてくれた事を思い出す。それは、水の中であばれるのをやめるということだった。助けたくても、溺れそうになって水の中で暴れている人は助けられないのだ。何故なら、しがみつかれたら助けに来た人までおぼれてしまうからである。大切なのは手足をばたばたするのをやめて、助けに来た人に身を委ねることだと教えられたのを思い出す。
困難や問題に囲まれた時に、私達がしなければならない事も同じなのである。静まること。黙ることである。動き回るのをやめることである。その時、初めて神様が立ち上がって、私達のために戦われるのである。働かれるのである。霊感を受けたホワイトはこう言っている。「自分が全く無力であることを知り、自己信頼の念を放棄する時に、始めて神の力にすがれるのである」と。自己信頼を手放さない限り、神様は助けることができなのである。
今、聖書研究ガイドでマルコを学んでいる。今週は丁度主イエス様の十字架の場面であった。十字架を前にしてイエス様は苦悩する。「主よ、この杯を取り除けてください」と三度も祈られたのだ。しかし、主イエス様は、最後には神様のみ心として受け止め十字架を負うのである。この十字架の苦悩の中に、私たちに対するか神様の愛とゆるしが保障されているのだ。来週、私達はその主イエス様の十字架を思う聖餐式を行う。来週まで心を備えて主の食卓につきたいと思う。主イエスは苦悩された。しかし、一度受けると決めた後は静かだった。ペテロ第一の手紙2:22−23には、「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しい裁きをする方に、一切をゆだねておられた」と書かれている。十字架の苦悩の中で、主イエス様は静かだった。黙して一切を委ねておられたのだ。
み言葉を告げている。「あなた方は立ち返って、落ち着いているなら救われ、穏やかに信頼しているならば力を得る」と。神様を信じて、静かに神様が働かれる時を待つ。これが信仰者の態度である。今どのような問題が、心を騒がせているだろうか。しかし、何が起こっても恐れずに黙っていよう。そして、神様が働かれる時を静かに待ち望みたいと思う。ここにこそ力があるからである。神様は必ず立ち上がって、私達に代わって戦ってくださり、助けとめぐみを与えて下さる。
祈り:天の神様。み言葉を感謝します。落ち着きが無く、静まることのできない私達に、どのような時にも黙して神様を待ち望むことができる信仰を与えて下さい。いかなる時にも、あなたの中に身を沈めて信頼する者となることができますように。問題と困難に囲まれている兄弟姉妹を支えて下さい。そして、み言葉の約束通り、あなたが立ち上がって戦って勝利を与えて下さいますように。会衆一同の上に御霊の満たしと祝福が豊かにありますように。主のお名前によって祈ります。
|