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神様が望まれる生活

稲田 勤

祈り:神様。この礼拝の場にお招き下さり感謝致します。私達は一週間の疲れや重荷、心の煩いをそのまま持ってあなたのみ前に集っています。主よ、どうかあなたが約束してくださっている真の休みをお与えて下さい。この礼拝の中で、あなたの懐で憩い、そして新しい力に満たして下さいますように。主に名によってお祈り致します。

 だれもが願いを持っていると思う。願いは様々である。親の子に対する願いがある。反対に子の親に対する願いもある。妻へ対する願い。夫に対する願い。信徒の牧師に対する願い。また、牧師の信徒に対する願い。一つ一つ上げだしたらきりが無い。神様との関係においても同じである。私達人間の神様に対する願いがある。しかし、忘れてはいけないのは、神様の私達人間に対する願いもあると言うことだ。神様は私達に何を願っているのだろうか。聖書の言葉から考えてみたい。

 テサロニケ第一5:12−22  P323

 ここに書かれている内容は、神様が私達に願っておられることである。1213節に、「主にあってあなたがたを指導している人々を、特に愛し敬いなさい」とある。先ほど前田牧師の長老按手を行ったが、教会には秩序があり、教会の働きのために指導的立場に立てられている長老やリーダー達がいる。私達はこの方々を愛し敬わなければならない。牧師も愛し支えられる必要がある。私達牧師のためにも日々祈って支えて頂きたい。

 14節には、「小心なものを励まし、弱い者を助け、全ての人に寛容であれ」とある。弱い者に心を向け配慮することは教会の使命であり、全てのクリスチャンの持つべき心である。新共同訳は、「弱い者たちを助け、気落ちしている者たちを励ましなさい」と訳している。「励まし」は誰もが必要としていることだ。使徒行伝9章を見ると、「教会は、聖霊にはげまされて歩み」とある。聖霊様のご性質の一つは「励まし」である。聖霊様に励まされて、励まされて、初代の教会は成長していったのである。神様は今も聖霊様を遣わして「励まし」を与えて下さっている。教会も、私達も、聖霊に励まされて歩むという特権に預かっていることを感謝したい。今日、気落ちして、力を失っている方がおられるだろうか。神様はあなたを励まして下さっている。神様に励まされて、励まされて歩ませて頂こう。

 

さて、今日特に5章1618節の言葉に注目したい。「いつも喜ぶこと。絶えず祈ること。そして、全ての事について感謝すること」。この三つを神様が私達に求めておられるとある。 多くの人が良く知っている言葉だと思う。この言葉が書かれたものを自宅の玄関や部屋に飾っている方もおられるのではないだろうか。教会にも飾ってある。二階に上がる階段の右脇に、山路先生が見事な字で書かれたこの言葉が掲げてある。夜一日の働きを終えて、電気を消して鍵をかける時、このみ言葉がライトアップされているので毎回のように目に飛び込んで来る。その度にふと思うのだ。今日一日喜びをもって生活しただろうか。何事も祈りをもって始めただろうか。そして、どんなことも感謝して受け止めることができただろうかと。

 テサロニケの教会に宛てて書かれたこの手紙は、パウロが書いた。この手紙が取り扱っているテーマは、主イエス様のご再臨を待ち望む者の実際的な生活についてであると言われている。五章の前半で、「主の日は盗人にように来る。人々が平和だ無事だと言っている矢先に突如としてやって来る。だから、眠っていないで、目を覚まして謹んでいよう」との警告と励ましのメッセージが送られている。私達も主イエス様のご再臨を待望する者である。その望みを持つ者は日々どのように生きるべきなのか。パウロは、411節で、「つとめて落ち着いた生活をして、自分の仕事に身を入れて働く」ように教えている。主イエス様を待ち望む者の生活は、決して熱狂的でも慌ただしいわけでもない。それは、落ち着いた堅実な生活なのだ。そして、その文脈の中で、この神様の願いが語られるのである。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることです」。新共同訳は、「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と訳している。

 「キリスト・イエスにおいて」。この一言が重要である。「あなたはキリストと無関係ではない。あなたはキリストを信じたのだ。キリストを受け入れたのだ。あなたはキリストと結ばれた者なのだ。だからあなたに求めるのだ。望むのだ。いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。全てのことを感謝しなさい。」神様は、主イエス様を知らない人に求めているのではない。主イエス様を信じ受け入れたあなたにこのメッセージを送っているのである。

 神様の願いは実に単純である。しかし、実際にそのように生きるのは簡単ではないことを私達は良く知っている。

 まず、「いつも喜んでいなさい」とある。アーメンである。本当にそうありたい。誰もがそう思うだろう。朝起きて、「よし、今日は不機嫌に腹を立てて生活しよう」と思う人はいないだろう。

 小さな自分の体験を証させて頂きたい。以前の教会にいた時のことだ。家内と子供達がでかけることになり、私は荷物や子供達を車に運ぶ手伝いをして見送った。その後家に帰ろうと思ったら鍵がかかっている。締め出されたのだ。しかも金曜日の午後。明日の説教の準備に追われていた時であったと記憶している。携帯に電話をかけても電源が切られている。気づいてもどってくる気配もない。だんだん腹が立ってきた。しかし、どうにもならない。運良く教会は開いていた。そこで母子室で静かに聖書を読む事にした。これがとても恵まれた時となった。良かった。これも神様の配慮に違いない。帰ってきたら何も咎めず穏やかに迎えてあげよう。そう思った。しかし、その気持ちが長くは続かない。待っても、待っても帰ってこない。遅い。何をしているのか。また、だんだん腹が立ってくる。人間の心とは難しいものだと教えられた体験だった。

 私達には、実に簡単に喜びや感謝を失ってしまうところがある。家から閉め出されたくらいならいい。私達は時折とても喜んでいられない状況に直面することがある。神様はその状況をも喜べといっているのだろうか。

ウエストミンスター教理問答というのがある。その中に、「人の主なる目的は何か」との問いかけがある。人間の生きる最も大切な目的は何かとの問いである。答えはこうだ。「人の主なる目的は、神の栄光を表し、かつ永遠に神を喜ぶことである」。人間は神様に造られ、神様に生かされている。だから、自分の喜びためではなく、神様を喜び、神様の栄光ために生きる。それが、人間の存在目的だと言うのである。

もし、自分の喜びために生き続けるなら、いつも喜ぶことは決してできないだろう。物事はなかなか自分の思う通りにはいかないからである。しかし、どんな状況の中でも、神様を喜ぶ事はできる。ネヘミヤは、エルサレム再建の困難な状況の中で、「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8:10)と民を励ました。どんな時にも神様を喜ぶことはできるし、それが力となると言うのだ。

主イエス様は、この地上で生きられた時、数々の困難や迫害に直面した。主イエス様も悲しみに涙した。時には憤りを感じることもあった。いつも喜びの笑顔でいたわけではない。特に十字架の苦悩は大きく深かったに違いない。主イエス様が十字架上で、「わが神、わが神、何ゆえにお見捨てになるのですか」と叫ばれたことを思うと良く分かる。しかし、その苦悩の中で主イエス様が喜びを持っていたと聖書は語るのだ。

ヘブル人への手紙12:2−4   P356

「彼は、(主イエス様は)自分の前に置かれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍んだ」と書かれている。主イエス様は苦悩の中で、十字架の死の向こうにある喜びをご存知だったのだ。それが苦悩に耐える力となったのである。ナチスの収容所の苦しみを体験したコーリー・テン・ブームは、「世の中に目を向ければ悩みが増すでしょう。自分の内側をのぞいても落ち込むだけです。しかし、あなたがキリストを見上げる時、心に安らぎが与えられます」と言っている。いつも喜べるかどうかは、焦点をどこに合わせるかで決まるのだ。私達も神様に焦点を合わせ、主イエス様によってどんなに大きな賜物を頂いたかに目を向けよう。私達の前にも取り去れることのない喜びが用意されているのだ。「弱り果てて意気阻喪しないために、十字架を忍んだ主イエス様を思い見なさい」とある。主イエス様を見あげよう。そして、主イエス様のように、あらゆる困難や問題の先にある喜びを見つめたいと思う。そこに生きる力の源があるのだ

次に、「絶えず祈りなさい」と言われている。私達キリスト者にとって祈りの重要性はどんなに強調しても強調しすぎることはない。ジョン・ウエスレーは、「祈りは、わたしたちの霊的生命の呼吸と言える。生きている者は呼吸をやめることが出来ない。神の臨在を本当に喜びつつ生きる者は、それだけ祈りと賛美とを絶えず献げるものである。」と言っている。いつも喜んで生きる者は、絶えず祈る者なのだ。

キャンベル・モルガンが書いた「キリストの危機」という書物がある。主イエス様は、その生涯において様々な危機を経験された。生まれる前に、ヨセフとマリアは離縁しようとした。これも一つの危機だった。ヘロデに命狙われて、天使のお告げでエジプトに逃れた。また、バプテスマ後は荒野でサタンの誘惑に直面した。そして、十字架の死が迫ってくる。危機の連続の中で、主イエス様はどうしたか。主イエス様は、父なる神様を信頼してよく祈られたのだ。

私達の人生にも危機がある。困難があり、試練があり、誘惑がある。危機の中でいかに生きるか。主イエス様はその模範を残して下さった。人生の危機の中で正しく生きる方法は、祈ることである。祈りは、神様への信頼の表れである。神様を信じ頼る者は祈る。しかし、神様を頼らず自分を頼って生きる者は祈らない。この点は明白である。どんなに言い訳しても、祈らないことは、自分が神様を頼って生きていないことを証明していることになるのだ。「絶えず祈りなさい」とは、言葉を変えれば、「絶えず神様を信頼しなさい」というメッセージである。

ライトフットという人はこう言っている。「祈りの本質を構成するものは、くちびるの動きではなく、神へと向かう心の高まりにある」。祈りの言葉を口から出していればいいのではない。「心が神に向かう」ことが大事なのだ。私達は一日ひざまづいて祈っているわけにはいかない。しかし、心を神様に向けて、祈りの心、すなわち神様を信頼する心を持って生きることはできる。「絶えず祈りなさい」とは、そのような生き方への招きである。そして、絶えず祈る生き方は危機の時も、そうでない時にも一番安全な生き方なのだ。

最後に、「全ての事について感謝しなさい」と言われている。韓国は国民の30パーセント以上がクリスチャンという国である。ある韓国のクリスチャンの証を聞いたことがある。「全ての事に感謝しなさい」との聖書の言葉をとことん実践している方の証である。ある日、いつもより家を出るのが遅くなった彼は、駅の構内を走っていた。階段を駆け上り、ホームに向かう階段を駆け下りようとした時、足がもつれて転げ落ちてしまったのだ。すごいのは、その転げ落ちる瞬間に、「主よ、感謝します」と叫んだと言うのだ。

「全てのことについて感謝する」とはどういう事か。それは、全ての事を神様のご計画の一部として受け入れるという事である。正直、嫌だと思う事も私達の生活の中には起こる。自分の思う通りにならなかったり、病気になってしまったり、災難に巻き込まれたりすることがある。そのような時にも、それが神様の計画と許しの中で、意味あることとして起こったことを静かに受け止めること。これが全ての事を感謝するという意味である。どうしたらそうできるだろうか。

ローマ8:28  P243

 このみ言葉ははっきりと告げている。神様は働いているのだと。万事、すなわち、全ての事のうちに神様は働いている。しかも、その全てが益となるように働いておられると言うのだ。この「益となる」という言葉は、「善となる」とも訳せる言葉である。つまり、全てが私のためになるように、最善となるように、神様は働いているというのだ。この神様の働きに目を向ける時に、私達は全ての事を神様の計画として受け止めていくことができるである。意味のない苦しみや試練はない。全ては神様のご計画である。神様は確かに全ての出来事の中で働いておられるのである。

 ウイリアム・ロウという19世紀の英国の牧師の言葉をご紹介したい。「あらゆる幸せと全きへの最も確実で、最短の道は何かときかれたなら、誰でも全ての出来事を神様に感謝し、讃美する習慣を身につけることであると答えるべきである。どんな不幸と思えることも、そのことで神に感謝し、讃美するなら、それは祝福へと変えられていく。」

 神様は今も働いておられる。私達が日々経験する一つ一つの出来事の中に。だから、全ての事を神様のご計画として受け止め、感謝して歩んでいきたい。

 私達は終わりの時代に生きている。主イエス様のご再臨は遠くない。これから、終末に向かって、私たちの生活を取り巻く環境はますますな悩み多きものになることと思う。そのような中で、私達は日々、主イエス様の会う備えをしないといけない。そして、神様の望まれる生活を送り続けたいと思う。それは、いつも喜んでいること。絶えず祈ること。そして、全ての事について感謝する事。この三つである。

終わりの祈り:神様。み言葉を感謝します。あなたが望んでおられるように、いつも喜び、絶えず祈り、全ての事について感謝して生きる力を与えて下さい。今、病や困難の中で、喜びや感謝を失っている方々の上に神様の支えと癒しを与え下さい。迎える一週間も、聖霊なる神様がご一緒して下さり、励ましを頂いてきながら歩ませて下さい。会衆一同の上に、神様の祝福と平和が豊かにありますように。主の名前によって祈ります。




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